代表 一田光彦
新日鉄を退職して温泉浴場を初めて早くも25年目を迎えました。これもひとえに皆様方のご支援の賜物と思います。私も○○才をこえました。人生64年連続で働いています。今後の平均寿命は男性95歳、女性104才といわれています.
元気の間は頑張り続けたい。
情報を求めています。江戸時代寛政12年10月13日生まれ、天保14年享年44歳、15歳の時本藩侍医杏月先生に学び春龍と称し、後大友要、または、大友参と称す、儒をもって業とす、山陽,五畿、北陸に遊歴し求めに応じ教授す、備前岡山に塾を開く、後長崎に赴き清の有名儒者と交わり遠霞と改め儒名を顕す、特に清の姑蘇張小雨と深交あり、本名、一田子商、幼名三茂、号招華堂、遠霞と称す。大塩平八郎との関係がインターネットで見つかりました。
天保三十六家絶句の中に長崎僑居雑題で掲載されていました。最近、亀田一邦書、幕末防長儒医の研究に詳細に出ていました。別名義卿ともいうこともわかりました。また、スクープとして黒田家家臣、儒学者海妻甘蔵の著作の中で遠賀堀川の開削で功労のあった一田久作の実父は筑藩六代目藩主黒田継高であると述べている。しかし、その根拠は何も示していない。郷土史家小川賢氏が発見。最近北九州のある方から直方藩の殿様の御落胤であることを言い伝えで聞いていますと聞いて確認できました。
今年秋出版の新編遠賀郡史では久作は黒田継高の庶子と掲載。継高は直方藩生まれ。福岡藩へ養子。
久作の堀川工事(宝暦1年から12年まで)功労の後、宝暦13年苗字、帯刀を許され小田姓(中世は小田村備前守)から一田姓に変わる。(調査の結果明治頃底井野村は歴史の改ざんが見られる。)
水巻河守神社の先代宮司波多野氏(九州大学歴史学部卒)が小田村伝記が底井野にあるはづはない。あるとすれば一田を介して底井野に流れたとしか考えられないと言われました。
写真は松口月城書(昇り龍)
天皇家に嫁がれた正田美智子妃殿下は皇室に物を持ち込まれないとのことで月城先生の掛け軸を一本持参されたとのことです。それほど月城先生は素晴らしい方です。
中世北部九州には企救郡に小田村氏、遠賀郡には麻生氏、宗像郡には宗像氏が存在。小田村氏は豊後大友一族田原親宏に攻め滅ばされる。(永禄12年10月9日)
北九州市域の中世武士小田村氏について皇學館名誉教授恵良宏先生が投稿され、中世から江戸時代における北九州の歴史がよくわかります。遠賀郡の中世武士はは皆麻生氏の家臣であり宗像郡は皆宗像氏の家臣である。自分の家も麻生の家臣でありながら知らない人が多い。
一田家室屋(醤油屋)は明治初年の上底井野村戸長であり、明治最初の初代郵便局でもある。
「郵便の父」と言われる前島密は郵便局を全国に広めるために地方の有力者の助けを借りた。国費で局舎を立てる余裕はない。庄屋などをしていた資産家を準官史に登用した。公務員としての名誉を得た人々は、自宅の一角に窓口を開き郵便局の仕事を始めた。このやり方が日本の近代化に果たした役割は大きい。